
草間彌生の作るものが、好き。
だいぶ前に京都国立近代美術館でひらかれた「草間彌生展」を見にいって以来、わたしは彼女の作品に惹きつけられている。
彼女は1929年の3月22日生まれで、もうかなりのお年だ。でも、年齢や性別、そして言葉さえも超越して、彼女の作品は心に訴えかけてくる。意味がはっきりとはわからなくても、自分がいまこの作品を見てどう感じて何を思っているのかをたぐりよせようとする過程そのものが、個人的にはすごくエキサイティングでわくわくする。
友だちをふたりひっぱっていったのだけど、「美術館って堅苦しいところだと思っていた」人も、「こういう風に芸術を楽しむことができるなんて!」といい意味での驚きがあったみたい。
「beyond description:言葉では表現できない」
わたしにとって、草間彌生の作品はいつもこのフレーズで表現される。どのようにも見ることができるし、ファーストインパクトから時間がたつと、また違う面が見える。
それは、草間彌生が彼女自身の「魂」を表現せんとしている気迫が、こちらにも(言葉では表現できないにせよ)伝わってくるからだろうか?
彌生ちゃんは(彌生ちゃん、と心のなかでつい呼びかけてしまう)、幼いときから統合失調症をわずらっている。統合失調症の幻覚(幻聴や幻視)が、子どものときの作品から如実に反映されていて、もうそのころには、いまの水玉模様を基調とした作品の根っこができていたようだ。
すこし話がそれるけれど、統合失調症の患者さんとお話したことがある。外来に初診で来られて、最初はそうと気づかずにお話をはじめ、だんだんと「あ、もしかして」と感じていたらやっぱりそうだったという人だ。独特の視点からお話をされていて、それは言ってしまえば「幻覚」ではあるのだが、「ああ、この人には世界がそういうふうに見えているのだな」と思うような経験だった。
病気に対してこのような見方が良いのかどうかはわからない。少なくともわたしにとって、統合失調症の患者さんとの出会いはあるひとつの考えのヒントになったように思う。
わたし自身が聴覚に関して、人と大幅にズレた音の世界にいるせいだろうか。いつのころか、次のように思うことが多くなった。「人は(たとえ病気や障害のない人でも)それぞれ違う世界にいる。病気や障害がなければ、そこの違いがふだんははっきりと目に見えないだけで、人はだれしもその人の五感を通して感じた世界しか持っていない」。
そういう意味で、人は(人の魂は)どうしようもなく孤独だ。
同時に、こうも思う。「その違う世界の差―どうしようもない孤独―を埋めるために、言葉があり文学があり、芸術がうまれ音楽や絵画や彫刻などがある」とも。
言葉では埋まらないもの、芸術を見て感じるものの差、そういった「違い」はやはり根源的に残るにせよ、なにか「わたしが感じているこの世界を共有したい」という孤独な魂がなんらかの形であらわれた、そんな解釈もできるのではないだろうか。
彌生ちゃんがどういう意図で作品を作っているのかを、わたしは知らない。孤独とか共有したいとかなんて、思っていないような気もする。でも、統合失調症の世界を知らないわたしに、彼女の目を通して見た世界はインパクトがあり、そして、ときに美しくすら思える。
自分の魂を、このように昇華して結実させている彌生ちゃんは、病気であるとか健康であるかなんて関係なく、すごい。
初めて彌生ちゃんの作品に出会ったとき、こう思ったことを覚えている。「麻薬や覚醒剤に手を出す人は、もしかしたら「見えない世界」を見たいのか、現実を見たくないのかもしれない」。
世界と、自分の魂の関係性。
この世界のなかで、自分の魂をどこにおくか。
一生ものの、いわば命題だと思う。
【草間彌生:魂のおきどころ】
松本市美術館の常設展示。平成20年5月11日(日)までは、常設展示室ABCを利用した特集展示となっている。
松本市美術館
時間:9時30分〜18時(入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合翌日)
年末年始(12月29日〜1月3日)
※4月28日、7月28日、8月4日、11日、25日、9月1日、8日は臨時開館
※5月12〜19日は展示替えのため草間彌生展示室は休室
2008.03.21 | Art: 芸術

きのう、「生きることと死ぬこと」について書いた。
そうしたら、いつも読んでいるブログ「日々是よろずER診療」で、絵本『わすれられないおくりもの』のことについて触れられており、「あっ」という声とともに記憶がよみがえってきた。
【日々是よろずER診療:わすれられないおくりもの】
『わすれられないおくりもの』は、実家の本棚にいまも並んでいる。
むかし読んだときは、なんて悲しい話なんだろうと思うだけだったけれど、いま振り返ってみると、それだけではない深い想いが込められているように思えてならない。
この絵本は、ひとりの人が死ぬということについての大事なことを、素敵でわかりやすい言葉で伝えてくれている。
たかだか4半世紀生きただけで、しかもまだ医師にもなっていないタマゴ状態のわたしが、あれこれと言葉をこねくり回しても「生きることと死ぬこと」について言うことに説得力ははっきり言ってあまりない。だけど、この絵本には心に染み入ってくる何かがあるのだ。
生きること、死ぬこと。死ぬことは、この絵本のアナグマさんの言葉を借りれば「長いトンネルのむこうにいく」ことなのだと思う。長いトンネルのむこうに行ってしまって、すぐには会えないようになってしまったけれど、アナグマさんはみんなの心に思い出として残っている。アナグマさんとの楽しい思い出、それが森のみんなにとってわすれられないおくりものとなった――そのように「トンネルのむこうに」いけたら、どんなにかいいだろう。
もちろん、そのような死にかたをしたくない人もいると思うし、「どのように死ぬか」は人それぞれだ。
でも、冒頭のエントリで、なんちゃって救急医先生が
> 今現在の自分の生き方において、どんなものを自分の周りにのこしておきたいか、ということを自らでお気づきになるかもしれません。
とおっしゃるように、「どんなものを自分の周りにのこしておきたいか」ということと、「どんなふうにトンネルのむこうに行くか」ということを患者さんご自身が考えることのできるような環境づくりは、医療という立場から見ても、これから必要になってくるのではないだろうかと思う。
「日々是よろず救急」のエントリでは、「お看取り」についても触れられている。実は、わたしも患者さんを見送った経験が1度だけあり、そのときのことを思い出した。「苦しかっただろうけれど、一度も死にたいとは言わなかったんですよ」とおっしゃるご家族の顔がおだやかだったのが、いまでも印象に残っている。
生きることへの意欲を失わず、でも最期のときを心おだやかに迎えることができないだろうか。「死ぬこと」から目をそらし、結果として自分の「生きること」からも目をそむけてきた結果が、最期のときに最悪の形となるような結末を迎えてしまうことがある、それはどうしようもないことなんだろうか?
2008.03.17 | Bookshelf: 本棚

恋愛って、なんでこんなにまどろっこしいんだろう。
一種の才能というか、向き不向きは絶対あると思う。
そして向いているかいないかで言えば、自分にはあんまり向いていないような気がしている。どろどろした愛憎劇、ましてや浮気なんかとは、できる限り縁のないところにいたい。というより、浮気をするだけのエネルギーもない、というのが自分の実情かもしれない。
だから、「銀行に行ってくる」と称して浮気にいそしむ中野さんなんかを見ていると、ただ「よくやるなあ」と感心するばかりだ。感心してどうする、という話だが、本当にどこからそんなエネルギーがわいてくるんだろう。わたしなんて、浮気することを考えただけで疲れるというのに。
「古道具 中野商店」は、骨董やアンティークというほど古くはなく、でも新品でもない、ほどよく古くさい(よく言えばレトロな)商品を扱うお店だ。
現代から見ると、ほんの少し変わった商品。そんなものたちがごった煮状態になって、お店にあふれている。そして中野商店とそのまわりの面々は、店主・中野さんをはじめ、中野さんのお姉さん・マサヨさん、バイトの「わたし」ことヒトミちゃんとタケオ、といった主だった人だけ抜き出してみても、微妙にどっかズレた人たちが集まっていておもしろい。
わたしには一生かかっても理解できなさそうな恋愛話が書かれていたりするわりに、なんだか親しみを感じてしまうのは、この「微妙なズレ感」のおかげかな、とふと思った。いや、自分がズレているかどうかという話ではなく、ふとした瞬間の心のささくれ・ズレなどが妙にリアルで。
「あー!いらいらする!」と何度も頭の中で思ったはずなのに、最後は心にすとん、と落ちる感じがした。
2008.03.12 | Bookshelf: 本棚

芸術は――特別なものではない。
特別な誰かのためでも、高尚なものでも、また特別な何かを描いたりするものでも、本来はないはずだ。芸術はわたしたち人間とともにあり、常にわたしたちの魂に寄り添っている。普段は気づかないだけで。
なぜだか、強くそう思った。
アンリ・カルティエ=ブレッソンは20世紀を代表する写真家であり、有名な写真家集団「マグナム」をロバート・キャパらとともに創設した。この映画は2003年、アンリが93歳のときに撮られたもので、彼自身の言葉と彼を知る数人の言葉、そして写真、音楽、によって構成されている。
それだけの、1時間とちょっとのドキュメンタリーなのに、気づいたら涙が出ていた。どうしてなのかは、わからなかったけれど。
映画が撮られた翌年、2004年にアンリは95歳で亡くなっている。
カメラの向こうの、うすいブルーの澄んだ目がきらきらとして、とてもキュートな人だった。少し耳が遠くなっているのか、両耳に補聴器をかけて、好きな音楽を楽しんでいた。
【目:EYE】
「瞬間の記憶」は邦題で、原題には「The Impassioned Eye」とついている。「Impassioned」を手元の英英辞書で引くと、次のように書かれていた。
"full of emotion"
瞬間を切り取る目。
現実を見る目、現実につき動かされて心の目で見る情景。
それを持つことは、きっと「写真」にとどまらずに、さまざまな分野で必要なものなのだと思う。
2008.03.11 | Movie: 映画





