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Amazon.co.jp:百器徒然袋 風
「百器徒然袋 雨」に続く、薔薇十字探偵・榎木津礼二郎を中心とする中編集。
「五徳猫(ごとくねこ)」「雲外鏡(うんがいきょう)」「面霊気(めんれいき)」の3編が収録されている。

榎木津の榎木津による榎木津のための中編集。
(Stories of Enokidu, by Enokidu, for Enokidu... なんて)。
ところで榎木津は探偵だが、探偵に事件の解説は望めない。
解説はしないが、破壊してくれる。
完膚なきまでに叩きのめし、壊し、再構築されていく爽快感。
榎木津というキャラクタの魅力が十二分に発揮されている。

以降は事件のあらましには触れないものの、内容に言及する箇所があるので未読の方は御注意。

憑き物壊し
「姑獲鳥の夏」よりなる一連の長編小説(妖怪シリーズ)と、この「百器徒然袋」シリーズは登場人物や時間軸においてリンクしている。
もちろん妖怪シリーズを読まなくても、本書だけで十分に面白い。
だが、妖怪シリーズとリンクさせることで、より楽しむことが出来るとも思う。

妖怪シリーズは、神主兼拝み屋兼本屋の中禅寺秋彦こと京極堂が物語(事件)のシメを行う。
不可解な現象(事件)に巻き込まれた人々の思い込みを、「こういうことなのだよ」説明することで解きほぐすのが京極堂のやり方だ(作中で「憑き物落とし」と呼ばれる行為がそれ)。そこで、巻き込まれた人々(及び読者)は「何だ、こんなことだったのか!」と腑に落ちる。それこそが「憑き物が落ちた」ということだ。細かく語れば限りが無いが、概要まで。
ともかく妖怪シリーズの場合には事件はこうやって収束していくわけである。
一方、本書を含む榎木津が中心となった作品では、事件は力技で収束させられる。不可解な現象(事件)は元の形をとどめなくなるほど完膚なきまでに破壊されつくし、巻き込まれた人々はただ呆然とするばかりである。しかし事件はなぜか解決しているのだ。
京極堂や周囲の人々(たとえば「雲外鏡」では京極堂の妹である中禅寺敦子)のフォローがなければ、人々はいったい何が起こったのかわからないだろう。まるで煙に巻かれたような心持ちになることうけあいである。ただ、事件を起こしていた「悪人」は完膚なきまでに叩きのめされ、事件は綺麗に解決している。
榎木津は憑き物そのものを徹底的に破壊し、物語を収束へと向かわせるのだ。
そこがこのシリーズの醍醐味であるだろう。

―あれはそう云う面なんですよ
本書「百器徒然袋 風」の中では、とりわけ「面霊気」が秀逸だと感じた。
3編収録のうちの最後ということもあるのだろうけれど、落ちが良い。ある程度予測できたとはいえ、京極堂のこの言葉は、トリを飾るのにふさわしい。この一連のストーリィの(おそらくは)主人公である榎木津礼二郎について、この一言にすべてが集約されているといっても過言ではないように思う。
確かに、物凄い馬鹿である。馬鹿の極み、ではないだろうか。

榎木津礼二郎がなぜあんなに傍若無人かつ天下無敵なのかといえば、コンプレックスの塊であるからだろう。その断片は彼の容姿、家柄、そういったものに垣間見ることが出来る。
たとえばその容姿から男性にまで言い寄られたことや、父親に対して嫌悪感を抱いていることは文中に述べられている通りである。
また、榎木津は「人の記憶が見える」という特殊技能を持っている。これについて、彼自身が経てきたさまざまな経験や、そこに付随する想いがあったことは想像に難くない。
本来の榎木津は頭の回転が速く、切れ者なのだ。軍隊時代の榎木津の渾名が「剃刀」であったという妖怪シリーズでのエピソードもそれを示唆している。また、本書においても「雲外鏡」では見事敵役の齟齬を看破した。記憶が見えるのだから当たり前といえば当たり前なのだが、見えるものから論を組み立てるのは単なる馬鹿では出来ないはずだ。
子供時代の彼は、クラスに一人くらいいる何でも出来てしまう嫌な奴であっただろう。家柄は一流、頭もいい、顔もいい、運動も出来る、おまけに諠譁も強いときている。何をやらせても人並み以上に出来てしまう。これで嫌な奴でないわけがない。常に周囲の羨望や嫉妬、やっかみのまなざしにさらされ続けてきたのではないか。

榎木津はだから、馬鹿の仮面を自ら被った。仮面だということすらわからないように、巧妙に「榎木津礼二郎」という面を作り上げ、それを身に付けている。榎木津の凄いところはその家柄や容姿や能力ではなく、「極めつけの馬鹿」だということに尽きるだろう。
それでも時々、ただの馬鹿ではないところが垣間見れてしまう。そこがとても人間くさく、親近感を抱くのだ。
どんどん馬鹿になっていく榎木津のこれからに期待。
榎木津は実に「愛すべき馬鹿」であると思う。

―「あれ」と付き合うと猛烈な勢いで馬鹿になる
そりゃそうだ。馬鹿の格が違う。
単なる馬鹿の私たちではとても太刀打ちできず、かえって自分の馬鹿を認識する羽目になるから猛烈な勢いで馬鹿になる。
私たちも仮面を被るが、果たして誰が馬鹿の仮面を被るだろうか?
そもそも、仮面こそが自分の素顔だと思っていたり、仮面の与える効果を把握していない馬鹿もいるだろう(それが悪いというわけではないし、私もそんな馬鹿の一人だ)。

自己と他者および主観と客観の境界、そしてその他の認識境界にしても、境界というものはひどくあいまいだ。あいまいでないように感じるかもしれないが。
私たちは曖昧模糊とした現象に境界を与え、「なんだかよくわからないけれど恐ろしいもの」として括ってしまう。それが妖怪であり憑き物であり、呪いである。
このシリーズには、目に見える形での妖怪は一匹たりとも出てこない。実生活においても、私たちは妖怪そのものを目にすることはないだろう。
しかし、紛れもなく妖怪は棲んでいる。
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2004.07.14 | Bookshelf: 本棚  
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