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江戸の誘惑
 ウィリアム・ビゲローが蒐集し、ボストン美術館に寄贈したコレクションがこのたび日本へ里帰りした。

 好みは北斎。
 筆致の躍動感、瞬間を切り取って活き活きと魅せる能力は、とりわけ北斎の絵で強く感じる。構図も定型的なものにとどまらず、当時としては斬新な構図が多い。
 それにしても色彩の豊かなこと!
 あるいは墨彩のなかの彩色の鮮やかなこと。
 表情については定型的なものが多いし、肉筆画は貴重品だったようで展示されている絵は型にはまった美しさだったが、ショップにおいてあった北斎の画集は活き活きと表情の描かれたものも多く、そちらのほうにより魅力を感じた。

【ボストン美術館肉筆浮世絵展 江戸の誘惑】
2006年4月15日(土)~5月28日(日)
神戸市立博物館
入場時間:午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
       金曜日・土曜日は午後7時まで(入館は午後6時30分まで)
休館日:月曜日 (ただし7/17は開館し、翌7/18は休館)
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2006.05.20 | Art: 芸術  
Amazon.co.jp:モーターサイクル・ダイアリーズ
 ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ23歳の医学生エルネストは、親友の生化学者アルベルトとともに南米大陸縦断の旅に出る。
 目的は、本でしか知らない南米大陸の見聞。目的地はベネズエラにあるハンセン病の療養所。
 ブエノスアイレスから距離にして、10,000キロ以上。
 交通手段はおんぼろバイク(モーターサイクル)の、「ポデローサ(怪力号)」。
 おまけにエルネストは喘息持ち。
 あふれる好奇心と行動力だけを糧に、金も食料も乏しい無謀な旅がいまスタートした。

 ところで、「チェ・ゲバラ」という名前を聞いたことがあるだろうか?
 キューバ革命の立役者となり、「アルゼンチンの英雄」としてその思想や人生が、いまなお多くの人に影響を与えている人物である。
 チェ・ゲバラの本名を、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナという。
 「チェ」とはアルゼンチンで話されるスペイン語で、「おい」「ちょっと」といったような呼びかけの言葉で、エルネスト・ゲバラは親しみをこめて「チェ・ゲバラ」と呼ばれた。

 「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、エルネスト・ゲバラ(チェ・ゲバラ)の「モーターサイクル南米旅行記」と、アルベルト・グラナードの「トラベリング・ウィズ・ゲバラ」を原作として、偉大な革命家ゲバラではなく、好奇心にあふれ融通の利かない23歳の若き医学生、エルネスト・ゲバラとしての姿を描く。

―これは偉業の物語ではない。同じ大志と夢を持った2つの人生が、しばし併走した物語である。

 2人はポデローサで南米大陸を駆け抜ける。
 冷たい湖に入り、雪のアンデスを超え、マチュピチュ遺跡、そしてハンセン病療養所。
 警察に追われる共産主義者の夫婦、土地を奪われた先住民族、死にゆく老女。
 南米大陸、そしてそこに住まう人々を目の当たりにして、2人は何を思い何を考えただろうか。

 「バッド・エデュケーション」でイグナシオを演じたガエル・ガルシア・ベルナルが、若き日のゲバラを純粋さと情熱と衝動を持って演じきっている。
 それにしてもチェ・ゲバラについては知っていたけれども、まさか彼が医学生だったとは!ちょうどこのときのゲバラと同じ23歳、同じ医学生として、その目線と思想と行動力から得たものは大きい。
2006.05.13 | Movie: 映画  
Amazon.co.jp:バッド・エデュケーション
 ペドロ・アルモドバル監督。
 舞台はスペインのマドリード。
 新進気鋭の映画監督エンリケのもとに、神学校時代の親友であったイグナシオがひとつの脚本を持って現れる。俳優である彼はその脚本を映画化し、自分を出演させてほしいと売り込みに来たのだ。
 タイトルは、「訪れ」。

 なぜ16年ぶりにイグナシオは訪れたのか。
 イグナシオの脚本を軸に、男色の愛憎の行く末が描かれる。

 「訪れ」に描かれていたのは、エンリケとイグナシオの哀しい過去だった。
 現在と過去、実生活と劇、愛と憎しみ、神の愛と人間の愛が交錯しあいながら、物語は進行する。

 正直な話、この映画はよくわからない。
 ではホモセクシュアルやバイセクシュアルの人たちならば、わかるかといえばきっとそうではないという確信はある。映画で重点を置かれているのは、男色そのものではなかった。
 背徳のエロス、それを表現するための味付けのひとつとして男色が効果的に用いられていはいる。
 つねにぎりぎりの瀬戸際をわたるような危うさ、どこからが本当でどこからが嘘かわからなくなるような妖しさ、そういうもののなかに匂い立つエロティックな映像に、生じるのは困惑のみ。
 しかしこの困惑、惑わされ、酔わされる感覚は嫌いではなかった。

 映画の落ち、を期待してはいけない。意味も理由も言葉も飛び越えたところに、あるものは何なのか?何が訪れたのか?それはわたしにはわからない。もしかしたら、それを「愛」と呼ぶのかもしれないし、アルモドバル監督はそう呼んでいたかもしれないけれど、わたしにはうかがい知れない。

 イグナシオ役のガエル・ガルシア・ベルナルの演技には鳥肌が立つ。
2006.05.13 | Movie: 映画  
フンデルトヴァッサー展
人と自然:ある芸術家の理想と挑戦

 「ライン、だ」
 そう思った。

 つなぐもの、分かつもの、取りかこむもの、そういったものとしての「ライン」。
 フンデルトヴァッサーの絵や創造物には、ラインがあった。
 何と何をつなぎ、何と何を分かとうとしているのか?

 フンデルトヴァッサーの言であるが、人間は第一の皮膚のほかに、衣服という第二の皮膚、家という第三の皮膚を持っているそうだ。また、彼は自然と人間との共生に重きを置いていたという。

 ならば、たぶん人間と自然をつなごうとしていた、のだろう。
 人間の顔をかたちづくる皮膚であるはずのラインは、いつのまにか服になり家になり、自然に還り、ときに宇宙まで広がり、不可分となる。すべてが同化し、渾然一体となった世界がそこにはあった。
 彼の絵にはよく「うずまき」がモチーフとして使われているが、うずまく線はまるで人間の指紋のようであり、木のようであり、光のようであり、すべてのようである。うずまいて広がり、うずまく中心に向かって収束する。それはまるで、人間も自然も含むこの世界そのものであるような気がするのだ。

 彼の絵を見ていると、「色即是空 空即是色」という般若心経の有名な一節が思い起こされた。

【Hundertwasser】
http://www.hundertwasser.com/
2006年4月11日(火)~5月21日(日)
京都国立近代美術館
入場時間:午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
夜間開館:金曜日は午後8時まで(入館は午後7時30分まで)
休館日:月曜日


2006.05.07 | Art: 芸術  
Amazon.co.jp:Touch the Sound
(リンク先は海外向けのDVDです。日本向けのものは未発売)。

パーカッショニスト(打楽器奏者)であるエヴリン・グレニーの「音の旅」を追ったドキュメンタリー映画。
エヴリンは8歳の頃から聴力に異常を感じ始め、12歳になるころにはほとんど聞こえなくなっていた。音楽を愛する彼女は聴力を失っても補聴器の助けを借りて音楽と親しみ、音楽家の道を選ぶ。

 まるで追体験をしているような気分になった。
 彼女が語る言葉は、わたしにとってとても身近で、自分自身がそう考えていたことだったから。他の人、とくに聞こえる人に彼女の言葉がどう受け止められるかはわからない。「新しい見地を得た」と思うか、「よくわからない」と思うか、さまざまだろう。けれども普段の生活に面白みを感じなくなっている人たちに、ぜひ見てほしいと思う。

 「Touch the Sound」の副題が、「そこにある音」なのにお気づきだろうか。
 人間はたいてい、いつもたくさんの音に取り囲まれている。
 聴力が正常である人たちにとっては、そんなのは当然のことであり、自分たちは音が聞こえていると思っているはずだ。たしかに、聞こえている。でも、どうやって?

 エヴリンはこう語っている。
「どうやって聴くの?」と聞かれたら、こう答えるわ。
「さあ、わからないけれど体を通して聴くのよ。自分をオープンにして。」
 エヴリンはこうも語る。聞こえる人たちに同じ質問をすると、「耳で聴いている」という答えが返ってくるけれども、耳で聞くって、どうやって?どうして私だけ「どうやって聴くの?」なんて質問をされるのか、少し腹立たしい、と。

 どうやって聴いているのか?
 聞こえていることが当然だと思っている人たちの大半は、実は音を聴く……つまり、音に耳を傾けることは少ないはずだ。
 具体的な例を挙げよう。たとえば電車の通り過ぎる音、雨が地面や傘や屋根を打つ音、人が歩く音(パンプスの音?スニーカーの音?どんな足音がしている?)、自動車が走る音、風が通り過ぎていく音、金属のぶつかる音、あなたはこれらの音たちをどれくらい注意して聴いたことがあるだろうか?
 「雑音がうるさい」と思ったことはあっても、たいていの人はほとんど注意もせずにただ聞いているだけだろう。

 エヴリンと、他の誰かの演奏風景を注意して見てほしい。
 彼女は時々、ともに演奏している人の方に目をやる。演奏者の体の動きやしぐさ、そういったものを視覚でとらえながら演奏しているわけだ。
 また、彼女は音を振動によって聴きわける。どういうことかというと、音というのは空気の振動によって発生するものなので、高さや大きさが違えば振動の性質も当然違う。低い音は低い波、高い音は高い波、そうすると手足に触れる振動の感じ方にも違いが出てくるので、彼女はそれを感じ取っている。
 つまり、音を耳だけではなくて、目で、体で、感じ取ろうとしているのである。そこにある音をつかみ、引き寄せ、発信し、奏でているのだ。

 音は私たちの身近にある。
 けれども、ほとんどの人の精神と肉体は音に対して開いていない。聞こえていると思っているけれども、「あたりまえだ」というその一言だけで、実は音に対して感性が閉じられてしまっている。
 音だけではない。あたりまえだと思っていること、何の面白みもないと思っているものこそ、もう一度目を向けて、そして触れてみる価値がある。
 音、風景、匂い、味、手触り、五感を通して、ありのままの自分で世界に触れようとするならば、新しい扉を開けるはずだ。

【Touch the sound】
 http://www.touchthesound.jp/
 京都シネマで5月19日まで。
2006.05.07 | Movie: 映画  
● 
Amazon.co.jp:鳥
 アルフレッド・ヒッチコック監督の手による、パニック・スリラー。
 タイトルにも「鳥」と冠されており、ご覧になったことのない方でも「鳥が人を襲う話」というのは知っているかもしれない。それがヒッチコックの仕掛けどころである。
 多くは語らないことにしよう。わたしは、ただ戦慄した。

 それにしても、つくづく思う。
 「恐怖」や「不安」といった感情は、裏を返せばその感情を抱く対象に対しての無知なのだと。
 何もわからない、何も知らない、どうしたらいいのかわからない。
 それが、そういった感情の根源なのだろう。
 そしてそういった「根源」たちは、ごく身近なところに潜んでいる。たとえば鳥のように。
 かわいくてきれいでおしゃべりをする鳥たちを愛でる。その反面、鳥たちの自由を奪ってしまう。
 無知がなせる業だ。

 わたしたちはあまりにも、身近なものに対してうわべだけの興味しか向けなさすぎる。
 背筋が寒くなった。
2006.05.07 | Movie: 映画  
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