POOL
プロフィール
Kumiko
Author:Kumiko
猫になりたい。
くわしいことはinfo
検索
ブログ内でさがす

Amazon内でさがす

さがしものはなんですか?
FC2 blog
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | スポンサー広告  
Amazon.co.jp:スカイ・クロラ
 森博嗣は著作の多い作家で、わたしも彼の作品はかなり読んだほうだと思うのだが、近年は刊行ペースにぜんぜん追いついていない。追いつこうという気もまったくないから、なんとなくそのときのフィーリングで読む、そういう感じになった。
 『スカイ・クロラ』が刊行されたのは5年まえで、そのときは読んでいなかった。たぶんそれは正解だし、5年まえに読んでもきっと、わかったようなわからないような微妙な気持ちになっただろう。いまだって白状すると「腑に落ちる」気持ちはない。
 すごく漠然としたものを書いていて、要約すると生きるとか死ぬとかいうことなんだけれど、そのこと自体の意味を探そう、とかいうのでもない。むしろ、まったく逆でそのこと自体に意味はないし、もしも読んでなにか意味があると感じたなら、それはその人自身にとっての意味だ。その人にとっては、重要かもしれないものではある。が、『スカイ・クロラ』の主人公は生きることにも死ぬことにも意味を見出せないし、時間の流れのうえを漂っているだけなのだ。これを言うとこの小説の核心に触れてしまうので明言は避けるけれど、主人公やそのほかの一部の人たちに意味があるとしたら、その連続性なのだと思う。
 もともと生きることと死ぬことは不可分だし、どこで切れたらはいオシマイ、と死ぬわけではない。バンと銃を撃って、はたして死んだのか?そういう問いかけがあるが、つまりそういうことじゃないかな。わたしは人生というものをちょっとかじったくらいのヒヨッコだから、想像してみただけの頭でっかち的考えではあるけれど。
 もっとも、そんなことを考えなくても、近未来的戦闘ファンタジーとして、やや散文的ではあるけれど、その散文ぐあいがテンポよく読みすすめられて、好きな人ははまるだろう。戦闘とか、死とか、そういうことに主人公の感覚と同じく、現実味があまりなくて、本当にファンタジーなんだと思う。でも、真実があるような気がする。真実らしく見えるのは、虚構の世界だからかもしれない。
スポンサーサイト
2006.11.19 | Bookshelf: 本棚  
Amazon.co.jp:プラナリア
 プラナリアという生きものを知っているだろうか。高校で生物を選択した人なら、扁平動物にそんなのがいたことくらいは記憶にあるかもしれない。
 山本文緒が書く『プラナリア』は彼女の直木賞受賞作で、表題作『プラナリア』を含めた5つの短編を収録している。そのどれもが、誤解を恐れずにいうなら「人生に疲れた人たち」のお話なのだ。
 五体満足無事に生まれて、学校にいって、高校くらいは卒業して、就職して、結婚して、子どもができて、子どももすくすく育って、孫ができて、死ぬ。
 わたしたちは人生をたいていそういうものだととらえ、そういうふうに生きなければならないと思っている、というよりほとんど思い込んでいる。だから、そこから外れるようなこと、たとえば病気や失業や離婚などは、それ自体が本人にダメージを与えるだけでなく、周囲の人びとによる無責任で身勝手な視線がさらにダメージを増長することが少なからずある。
 この本のなかには、自分自身や周囲の「こう生きなければいけない」ということや、人生というものの先の見えなさが、ひどく重荷になってしまい、そこから身動きできずに人生そのものに疲れてしまった人たちがいる。何にも考えずに、動かないで、ただプラナリアのようにぷかぷかと水のなかに浮かび、分裂できたらどんなにいいだろう?
 しかし、彼や彼女は同時に身動きしないではいられないことを知っている。身動きのできない息苦しさで疲れきっていても、それでも人生をどうにか続けていくのだ。
 身動きがとれない、そういう息苦しさにつつまれているのだが、明日を生きていくことをさりげなく選択していこうとする人びとの姿には静かに感じるものがある。最後の短編『あいあるあした』のおわりで、悪いことばかりじゃないよと、よしよしと頭をなでてもらえた、そういう気持ちでこの本を読み終えた。
2006.11.18 | Bookshelf: 本棚  
Amazon.co.jp:太陽と毒ぐも
 角田光代の書いたものは、映画化された『空中庭園』をはじめとして、いくつか読んでいる。「日常の中のちょっとしたひっかかり」のようなものがわたしはわりと好きで、この人の作品のそういうところが気に入っていた。
 この『太陽と毒ぐも』は11の短編からなっている。タイトルは短編のどれかではなくて、本自体につけられたもの。『北風と太陽』のように、それぞれ11組のカップル(太陽と毒ぐも?)が「好きなんだけど、こいつのこういうところ、どうにかなんないかなぁ」とあれこれ頭をめぐらし、それぞれの結末に(そして未来に)至るといった調子の11のストーリーがおさまっているのだ。
 すごくささいなことなんだけれど、例えば食べものの好みがあわないとか、身だしなみとか、おたがいが育ってきた環境の違いが招くちょっとしたことがきっかけで恋人たちはケンカし、わめき、開き直り、妥協点をみつけるか別れるかとにかくどうにかなっていく。読んでいるほうや、はたから見ているほうからすれば、「なんでそんなことで…」と思い、「バカだなあ」と鼻で笑ってしまうのだ。でもこれがけっこう、程度の差はあっても「あー、あるかもしれない」と遠い目をしたくなるようなところがあり、あなどれないんである。
 そんなふつうのことを書いているから、お話としては全体的にトーンが平板で平凡。でも、そういうことをふつうに、ふつうに見えるように、共感を得られるように書けるのはすごいことだと思う。いま恋愛している人なら、読んで共感する人もけっこういるのではないだろうか。現在、恋愛モードに入っていないわたしでも、すこし遠い目をしたくなった。
2006.11.18 | Bookshelf: 本棚  
 10月25日に、映画「カポーティ」を見てきた。
 トルーマン・カポーティは、1924年9月30日アメリカ生まれの小説家。映画「カポーティ」は、1959年11月16日カンザス州の小さな町ホルカムで起こった一家惨殺事件を彼が取材し、犯人と交流し、ノンフィクション・ノベルという事実をもとにした小説『冷血 (In Cold Blood)』を書き上げていく過程を追っていく。ジェラルド・クラークが書いたカポーティの伝記が原作。
 と、要約すればただそれだけの地味な映画にすぎない。
 カメラはカポーティとその周りの人々をとらえ、カポーティの姿を浮き彫りにする。とくに、一家惨殺事件のふたりの犯人のうちのひとり、ペリーにカポーティが興味を抱き、彼と交流する姿にかなりの時間をさいている。
 ペリーと対話し時に涙するカポーティ、社交界の中心となって軽薄なブラック・ジョークを飛ばすカポーティ、真摯に語るカポーティ、嘘をつくカポーティ、恋人と電話するカポーティ(彼は同性愛者だそう)、かん高い声で独特のしゃべり方をするカポーティ、傲慢に自分を誇るカポーティ、悩むカポーティ。
 そういったカポーティの姿は、おそらく見る人にそれぞれ異なった感想をもたらすだろう。卑劣で嫌なやつ、小説のためにここまでするのか、変な人、などなど。
 わたしには彼は嘘つきで、でも同時にとても正直で、そのときそのときの気持ちは正直な気持ちであったようにも思えるのだ。嘘をついている当の本人にも、嘘か本当か、わかっていないみたいに。
 それは彼の書く作品そのもののような、つまり現実と虚構の入りまじった、どこかその場にそぐわない不思議な姿だとそのとき強く感じた。カポーティを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンのすばらしい演技のためでもあるけれど、だから映画で見たカポーティは、ときどき画面の中でそこだけ貼り付けたような、場から浮いたような、目を引く力を持っていたと思う。傲慢で尊大で、でも目が離せない。
 ペリーを演じるクリフトン・コリンズ・Jrもいい。とくに目がすてきで、逮捕されてからのすさんだ目、話をするときの光る目、目がとても印象に残っている。ペリーもまた、凄惨な殺人を行った犯人である反面、非常に純粋な側面を持っており、どちらが本当の彼なのだろうと思わせられるのだ。
 乱暴に結論づければ、カポーティもペリーも二面性をもっている、といえる。あるいは、人間はそういった相反する性質をもっているものだが、それが極端にあらわれているということだろうか。
 カポーティは映画のなかで、「彼と私は一緒なのだが、あるとき彼は家の裏口から出て行って、私は表玄関から出て行った」とペリーについて語っている。しかし、もしかしたら誰でもそうなのかもしれない。そこを考えると、不思議な気持ちになった。
 映画はカポーティとペリーの交流の終わり、すなわちペリーの死、絞首刑、によってクライマックスを迎える。わたし個人の感じ方かもしれないけれど、後味の悪さはあまり感じられなかった。凄惨な事件と、作品のために死刑を延期させようとする作家カポーティと、殺人犯を描いているにもかかわらず、それらがまるで現実にうすいベールをかけて覆ったような色調で見えていた。ある意味でそれはとても、カポーティにふさわしい表現で、カポーティその人のような映画だったように思う。
2006.11.17 | Movie: 映画  
● 冷血
Amazon.co.jp:冷血
 トルーマン・カポーティの作品を読もう、と唐突に思い立った理由は「カポーティ」という映画の公開にあり、映画に興味を持ったところからはじまった、といえる。ところでその映画「カポーティ」は、彼が『冷血』(すなわち、いまから感想を書こうとしている作品)を書くにあたっての、いわばノンフィクション・映画とでもいった体裁をなしている。
 そういったいきさつがあったにもかかわらず、当の『冷血』に手をつけたのは映画を見たあとのことで、しかも今日まで読み終えられずにいた。映画を10月の終わりに見にいったから、もうほとんど1か月ちかくが経っている。
 『冷血』は事実に基づいた小説である。
 1959年11月16日、カンザス州の小さな町ホルカムで、一家4人の惨殺事件が起きた。それに興味を抱いたカポーティは、綿密な取材を重ね、膨大な量の情報を再構築し、小説としてつくりあげていったのである。
 カポーティは自分で『冷血』のことを「ノンフィクション・ノベル」と表現している。ただのノンフィクションではなく、ノンフィクション(客観的事実の表現)でありながら、同時に小説であろうとした面白い試みをやっていて、その結果として「これは実際にあったことなのだ」ということを忘れさせるほど小説として完成度が高い。しかも、ふとした拍子に事実であるということを思い起こさせ、そこからさまざまな感情がわきでてくるのだ。
 被害者と犯人と、それをとりまく人々のようすで小説は織りなされていくが、作者自身は徹底的にそのなかから姿を消しており、いままでの彼の作品がつねにどこか作者自身を連想させるような要素を大いに含んでいたことと対照的である。
 しかし、あくまでも現実に即したものであろうとしている反面、皮肉にも(すぐ前でも書いたことだが)「これは実際にあったことなのだ」というのを忘れるほど、虚構=小説、でもある。このことが、強くわたしに『冷血』がカポーティの作品であることを感じさせ、彼のもつ、現実と虚構のさかいめがあいまいになるような、ふしぎな魅力もまたいかんなく発揮されているといえるのではないだろうか。
 サスペンス的な要素も含み、この先がどうなるのだろうという高揚感も味わえるので、あえて内容については触れないことにしよう。
 訳は、滝口直太郎。図書館で借りた古い本だから訳語も微妙に古く、たとえば現在の「統合失調症 (schizophrenia)」に昔の「精神分裂病」という訳語が使われていたりするのはしょうがないことで、少しの訳のばらつきを除けば読みやすいほう。
 いまは佐々田雅子の新訳であたらしい版が出ているので、たぶんそちらのほうが現代的な訳だろう。『冷血』は再読したい作品なので、今度は新訳で読もうと思う。
2006.11.16 | Bookshelf: 本棚  
Amazon.co.jp:遠い声 遠い部屋
 9月のおわりに『夜の樹』を読んでから、自分の中で「カポーティを読もう・キャンペーン」が地道に開催され、ずっとカポーティを読んでいる。昔は一日で本を何冊も読みきってしまうことがよくあったけれど、最近では時間と集中力の関係で、少しずつしか読めていない。それで、ようやく5冊目を読んだ。
 5冊目にして選んだ『遠い声 遠い部屋』は、カポーティの処女作であり出世作である。書くことは彼にとって幼いころから親しんできたことであったようだし、それ以前にも短編作品を書いているが(『ミリアム』もそのひとつである)、この長編作品によって彼はアメリカ文学界に彗星のように降りたったのだった。このとき、22歳。
 ごく初期の作品にもかかわらず、このころからすでに作品には強烈な彼独特の個性があらわれている。というのは現実と虚構の入り混じるファンタスティックさがあるということで、(おそらくは自身の経験を下敷きにしているのだろうが)現実にうすいベールをかけて覆ったような夢のような作品なのだ。
 作品は少年が自分の父親を求めて、それまで住んでいた土地を離れて父親のもとへやってくるところから始まる。父親のいる館での生活は、夢の中にいるようなできごとの連続で、そして最後に現実へと着地する(すくなくとも、着地しようとした)。それは少年が「現実を見なければいけない」という大人の世界へ足を踏み出した証拠であり、どこか夢のようにふわふわとした少年時代との決別を意味していたのだろう。
 (子ども時代の)あの声もあの部屋も、もはや 遠い声 (Other Voices) であり、遠い部屋 (Other Rooms) となってしまった、その回顧の物語というふうにも読める。
 ファンタスティックさが後期の作品にもまして強く、しかも「どこからが虚構でどこからが現実かわからない」というわけのわからなさを持った長編作品であるため、ともすれば前後関係がわかりづらく、惑わされているような気分になった。支離滅裂、という評価を下す人もいるだろう、しかしその言葉だけでは語れない不思議な魅力があるとわたしは思う。
2006.11.06 | Bookshelf: 本棚  
上に戻る
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。