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揺らぐ近代
 「揺らぐ近代」は、西洋文明が身近なものとなりつつあった明治時代以降、つまり「近代」と形容される時代に絵画はどう変容してきたのかを展示しようという試みだ。
 出展されている絵画は、狩野芳崖や高橋由一をはじめ、岸田劉生、黒田清輝、藤田嗣治、川端龍子などあちらこちらの美術館でお目にかかるような、そうそうたる顔ぶれである。じっさい、東京国立近代美術館などで目にした作品もまじっていた。
 試みとしては、面白い。
 しかし、どうもしっくりこなかったな、という感じなのだ。もちろん、中には「おおっ」と思うような作品もあったことは確かだ。だが、同じ京都国立近代美術館で以前開催された「プライスコレクション―若冲と江戸絵画展」に比して、「これはすごい!」という純粋な感嘆を展示会全体から感じることがなかったのも事実だ。
 単なる趣味なのかもしれないけれど。
 思うに、浮世絵などの古典的な手法が中心だった中世から、きわめて自由な表現方法が許容される現代までの、過渡期に描かれた作品が中心だということがひとつの原因のような気がする。新しい手法と伝統的な手法のはざまで、「描く」という行為そのものよりも、どういった手法(技術:テクニック)を選ぶか、何で(油絵具で?岩絵具で?)描くか、新しい表現の手法はないか、そこに腐心しているという印象を受けた。
 それが悪いというのではない。西洋文明の流入はそれまでの価値観を変え、当時の画家に技術的な面での革新をもたらしたことだろう。革新は、つねに混沌としたものとなる。その混沌こそが「揺らぎ」であり、技術も、画家自身も、揺らいでいたといえるのだろう。そのため、「揺らぐ近代」というテーマを象徴するかのような展示ではあった。
 もう一押し、「近代」という時代背景の解説があれば、とそれが残念。「近代」は、日本がさまざまな面での著しい発展を遂げながら、日清・日露戦争などの戦争もあった時代である。そういう、まさに「揺らぐ」近代の時代背景があれば、「揺らぎ」効果をより強められたのでは。
 ともあれ、出展された絵そのものは、完全、自分の趣味に走れば岸田劉生の「道路と土手と塀」が良かった。これ、以前に東京国立近代美術館でも見ていて、そのときも「ただの風景なのに、なぜこんな力があるのだろうか」というくらいの力強さを絵から感じた。あと、たぶん空の色が好き。オディロン・ルドンの「ベイルルバードへの道 (オルセー美術館蔵)」の空の色にも似て、この色そのものが好きなんだなあと実感。
 余談ではあるが、こちらのコレクション展に出ている「若き日の仏陀」もオディロン・ルドンの作品で、これもがっちりわたしの趣味だ!好きだなあ、なぜか。

【揺らぐ近代 日本画と洋画のはざまに】
 2007年1月10日(水)~2月25日(日)
 京都国立近代美術館
 入場時間:午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
 休館日:月曜日 (ただし2/12は開館し、翌2/13は休館)
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2007.02.25 | Art: 芸術  
Amazon.co.jp:アワーミュージック
 ふしぎな映画だ。映画、と呼んでいいのかどうか迷う。
 これがわたしとゴダールとの、はじめての出会いだった。
 核となるのは「戦争」と「生死」。
 ある意味で非常にわかりやすいけれども、ゴダール独自の感性で切り取られた前衛的な作品で、見るものを混乱と思考のうずの中に沈めてくれる。

 話は脱線するが、中学生のころサラエボ*に住む女の子と文通をしたことがある。つたない英語を駆使してやりとりをしたけれども、けっきょく数回で連絡が途絶えてしまった。
 いつだったか、写真を同封してくれた。青い目の、ブロンドの女の子。あの手紙はどこに行ったのか、いまはもうない。ボスニア・ヘルツェゴビナ*の治安は回復したと聞くが、彼女はどうなったのだろう。
 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争*も、すでに10年以上前のことになった。
 わたしが生きてきた、たった20年ほどの間だけでも、いくつもの争いが各地で起きている。
 湾岸戦争。イラン戦争。ルワンダ、コソボ、チェチェン。
 神話の時代から尽きることのない争い。
 そして、その争いについて語る言葉をもたなければ、歴史的敗者となって消える。
 
 「アワーミュージック」について、わたしは多くを語ることができない。なにしろゴダール、彼に出会ったのはこの作品がはじめてなのだ。彼の映画について語る場合、彼について知る必要があるという気がする。
 いちおう、簡単にいうと映画の構成は「地獄編」「煉獄編」「天国編」3つのパートからなっている。主体となるのは「煉獄編」で、ゴダール自身が登場している。しかし、ドキュメントではない。かといってフィクションでもない。また、いたるところで映画の(フィクションの)映像、ドキュメンタリの映像が交錯しあい、この映画の不確かな印象の一因となっているように感じた。
 ひとつだけわたしが強く思うのは、「アワーミュージック (our music:notre musique)」つまり「わたしたちの音楽」でいうところの、「音楽 = music = musique」とは、いま現在わたしたちが聴いて楽しんでいる音楽というだけの意味ではないだろうということだ。はっきりとはわからないが、もしかしたらそれは「よい調べ、音(おん)の調子」ひいては「福音」をしめすかもしれない。
 わたしたちにとっての福音とはなんだろうか。
 救済が万人に平等に訪れることはあるのだろうか(いや、ない)。
 「わたしたちの音楽」
 ゴダールが指し示すものは、大きすぎてつかみ切れなかった。

*ボスニア・ヘルツェゴビナとサラエボ
 ボスニア・ヘルツェゴビナは、1992年に旧ユーゴスラビアから独立した国で、サラエボがその首都である。世界地図では、バルカン半島(イタリア半島の東にある)の西側に位置している。
 バルカン半島はボスニア・ヘルツェゴビナのほかに多くの国を有しているが、ここは民族的、宗教的に多彩な土地がらで、第一次世界大戦が勃発するきっかけもここの民族問題であった。それ以後、宗教・民族問題が多く発生している。
 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争もそのひとつ。
2007.02.14 | Movie: 映画  
ビル・ヴィオラ―はつゆめ こんなふうに、表現できるんだ!
 新しいタイプのアートとの出会いは、新鮮な驚きをもたらしてくれた。
 ビル・ヴィオラがつくり出す作品群は、「ビデオ・アート」「映像アート」というらしい。わたし個人の所感ではあるが、それは静止画の絵画や写真とは異なり、かといって映画でもないと思った。絵筆のかわりにビデオカメラを表現手段として用い、なおかつ撮影された映像そのもので表現しようとしたものだ、という気がする。

 「はつゆめ」というのは56分のビデオ・アートで、最初にこれを見た。映画を見るときみたいに、上映時間が決まっている。時間がくると、ミニシアターのような小さな部屋に通されて、間をおかずにすぐに映像がはじまった。最初に日がのぼり、それから関係のあるような、ないような、不思議な映像の連続。
 何を感じて、どう解釈したかはきっと人それぞれだと思うけれども、わたしは生きることと死ぬことの妙のようなものを見たように感じた。となり合わせの生と死。暗闇のなかで、ネオンサインだとか車のライトだとか、たくさんの光が人魂のように浮かんでは尾を引いて消えていく。途中から灯篭流しをイメージしていたら、そのものずばりの映像もあった。ここの灯篭流しの映像も、すごいセンスで撮られていて、ただものじゃないなという感じ。
 こういう題材(生と死)で、いままでたくさんの芸術家がいろんな作品を作ってきたと思う。ビル・ヴィオラのようなやりかたは初めて見たから、試みとして面白かった。

 そのほかには8つのビデオ・アートが展示スペースに配置されており、こちらは上映時間はなく自由に見られるようになっている。いずれもテンポがゆっくりとしていて、「いらち(せっかち)」な関西人にはきついかもしれない。そこをぐっとこらえて、時間をかけてじいっと見ると、スルメのような味わいが出てくるというのが個人的な見解。
 たとえば「ラフト/漂流」という作品は、映像の最初では人種も性別も年齢も多様な人びとが混在している。そこに微妙なよそよそしさ、不調和が感じられた。ところがある瞬間、人びとはまさに「漂流」し、そこに「漂流者」という一体感が生まれる。一枚の絵画としての調和。その変貌は映像ならではだろう。

 もし、これからビル・ヴィオラの作品を見にいかれるのなら、1日かけて見るつもりで行くのがいい。駆け足鑑賞は、とてもじゃないができない。それでは「せっかく見にいったのに何だこれ」という感想にもなりかねないので、好みはあるとしても時間には余裕をもって。

【ビル・ヴィオラ―はつゆめ】
 2007年1月23日(火)~2007年3月21日(水・祝)
 兵庫県立美術館
 開館時間:10時~18時(金・土曜日は~20時)/入場は閉館30分前まで
 休館日:月曜日(ただし2月12日(月・祝)は開館、翌13日(火)休館)
2007.02.12 | Art: 芸術  
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