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新潮社:yom yom vol.3 まってました。
 「yom yom vol.3
 vol.1 の赤、vol.2 の白に続く、vol.3 はあざやかな黄緑で。久しぶりに寄った本屋で、この黄緑を目にしたときのうれしさといったら!
 それが7月のなかばごろのお話。
 (いや、でも。これから忙しくなるし)。
 としばらく逡巡したあげく、パンダの誘惑に勝てずにレジに持っていってしまった。ああ…。
 1ヶ月かけて、ちまちまと読みすすめることのできる楽しさ。問題点といえば、「あれもこれも読みたい!他の作品も読みたい」が止まらなくなってしまうことかも。ぐっと、こらえてはいるものの。
 個人的には、「やっぱり星新一はすごい」。
 部分的に読んだ、彼の作品をまとめて読んでみたくなった。
 でも、いつになることやら。
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2007.08.13 | Bookshelf: 本棚  
フィラデルフィア美術館展
 京都の夏は暑い。
 市美術館から見える平安神宮の大鳥居は朱色に燃えて、アスファルトの地面がじりじりと焼けつく音が聞こえるような気がする。
 そんななか、友だちと一緒に「フィラデルフィア美術館展」を見にいってきた。
 春にも、「大エルミタージュ美術館展」を彼女と共に訪れている。
 その大エルミタージュ美術館展や、オルセー美術館展、昔に見たゴッホ展の混みぐあいから「印象派の展覧会は混むのかな」と思っていたけれど、意外なことにずいぶんと空いている。普通にしていれば人にぶつかることもなく、ゆっくりと見ることができた。
 ……やっぱり、暑いと外に出る気がしないのかな。

 「フィラデルフィア美術館展」の副題は「印象派と20世紀の美術」で、コローやクールベの写実主義からはじまり、印象派、ポスト印象派、キュビスム、エコール・ド・パリの時代、シュルレアリスムと経てきて現代美術に至るまでの流れで構成されている。
 意図しているわけではないが、わたしが心をひかれるのは、この「写実派~現代美術」にかけての作品が多い。
 (もっとも、見ているのもその時代のものが多いのだけれど)。
 そのなかでも今回とりわけ印象に残ったのは、ジョアン・ミロの「月に吠える犬」だった。小さなプレートに添えられていた「そんなことは知らないよ」という文章も。
 そんなことは知らないよ。でも犬は吠えるのだ、なんて。
 コンスタンティン・ブランクーシの「接吻」もおもしろい。このひとはどういう風に世界を見ているのか、とても気になる。極限まで単純化された彫刻。兵庫県立美術館のコレクション展にも、彼の「新生」という作品があって、金色のつやつやした卵のようなそれがすごく好きだ。
 他の絵も、ひとつひとつおもしろさがあって、見ていて楽しかった。
 ゴーガン、ロダン、マティス、キリコ。
 なにより驚いたのは、ピカソの「3人の音楽師」。
 このフィラデルフィア美術館展を訪れる前日、冒頭の彼女も含めて、高校時代の友人3人が神戸に集まった。わたしと、彼女以外にもうひとり。そのもうひとりが5月にニューヨークに行き、MoMA(ニューヨーク近代美術館)で「おみやげに」と絵はがきを買ってきてくれた、その絵はがきが「3人の音楽師 (Three Musicians)」だったんである。
 MoMAとフィラデルフィア美術館のものでは、微妙に違う。
 違うのだが、偶然の出会いに驚き、うれしくなった。
 また、この「3人の音楽師」は、ギョーム・アポリネールの死を追悼したものらしい。アポリネール!
 高校時代、フランス詩にかぶれて、もちろんアポリネールのものもいくつか読んだ。なかでも「ミラボー橋」がお気に入りで、「3人の音楽師」を見たとたん冒頭の一節が頭に流れる。
 ミラボー橋の下を セーヌ川が流れ
 われらの恋が流れる
 わたしは思い出す
 悩みのあとには楽しみが来ると

 (後略:堀口大學 訳)

 面白い展覧会だった!
 京都は暑かったけれど。
 この暑さも悪くない、かもしれない。

【フィラデルフィア美術館展】
 2007年7月14日(土)~9月24日(月・休)
 京都市美術館
 開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
 休館日:毎週月曜日(祝日の場合は開館)
2007.08.10 | Art: 芸術  
Amazon.co.jp:わたしの生涯
 小学生のころにヘレン・ケラーについて書いた伝記を読んで、夏休みの読書感想文を書いたことがある。いまとなっては何を書いたかなど忘れてしまったけれど、ありきたりな「見えない、聴こえない、言えないという3重苦から抜け出した偉大な人」という印象をいだいたまま、それきり彼女について深く考えたことはなかった。
 伝記の記述のされ方や、わたし自身の未熟さのために、彼女はすばらしい人であり、わたしとは違うような何かを持っていたのだろう、と単純に考えた記憶がおぼろげながら残っている。

 本書『わたしの生涯』は、彼女がラドクリフ・カレッジに在学中で20歳だったころに書いた "The Story of My Life" と、中年をすぎてから書いた "Midstream" の2つの自伝の翻訳である。前者は「暁を見る」、後者は「濁流を乗りきって」と「闇に光を」とに翻訳され、全部で3章の構成になっている。

 ヘレン・ケラー。
 「すばらしい人であり、わたしとは違うような何かを持っていた」
 というのは真実であり、まちがいであった。
 これを読んだのは、おもに電車での移動中の空き時間を利用してのことだった。ときおり文章を追いかける目線をあげて、車窓の外の風景を眺めやると、まるでヘレンの魂に寄り添われているような気がした。
 100年以上も前の時代であり、文化的にも宗教的にも、社会的にも異なった背景を持っているにもかかわらず、彼女の言葉にはふしぎと近く感じられる。もちろん、違うところも多くあり、そこからは学ぶものも大きい。
 なによりも目をみはらずにはいられないのは、風景や日常のこまごましたこと、友人たちとの交流の描写である。とくに、自然のいぶきを、詩の一節なども交えつつ描く筆致は(古いながらも)美しい。
 それを見るにつけ、目と耳とに身体的制限があった彼女は、まさしく「魂で見て、聞いていた」のだろうなと心が震えた。そして、身体的な制限により、閉ざされていた彼女の魂を世界へと開放した、アン・サリバン先生の教育にも。
 すこし話が飛ぶが、イギリスの難聴を持つパーカッショニスト、エヴリン・グレニーは、そのドキュメンタリー映画である "Touch the Sound そこにある音"の中で、こう語っている。
―「どうやって聴くの?」と聞かれたら、こう答えるわ。
―「さあ、わからないけれど体を通して聴くのよ。自分をオープンにして。」

 自分をオープンにし、世界とつながる。そして、見て、聴く。
 目にも耳にも身体的障害などなくても、「見えず」「聞こえず」ということは多い。それは、対象に対して感性が閉じているからだ、と思う。
 (卑近な例でいえば、「目の前にあるものを一生懸命探している」なんて、よくある例ではないだろうか。見ているはずなのに、見落とす、というのも社会には多い)。
 魂で見ることも聴くことも、ごく当たり前に誰にでも備わっているはずのものであり、ヘレンやエヴリンが何か特別なことをしたというわけではないと思う。もちろん、わたしもそうだ。

 さて、カバーの折り返しには、"「奇蹟の人」ヘレン・ケラー女史の祈りと感動の自伝" と紹介されているけれども、この紹介文を書いた人は中身を読んでいないんじゃないだろうか。
 読めば、ヘレン・ケラーが自身を「奇蹟の人」などとは思っていないことは、すぐにわかるだろうのに。
 そこに違和感を覚えて調べてみたら、「奇蹟の人」とはサリバン先生を主人公にした、ギブソン作の演劇だった。「奇蹟の人≠ヘレン・ケラー」であって、「奇蹟の人=サリバン先生」ということらしい。

 それにしても、マーク・トゥエイン、グラハム・ベル、トーマス・エジソンなど、著名な人々がつぎつぎに出てくるのには驚き!とくに、電話の発明で有名なグラハム・ベル博士の、知らなかった側面がかいま見れたことは、楽しい発見だった。

 五感のとびらを開放して世界と触れ合うなら、そこに息づくなにかを掴めるような、そんな気持ちになりながらこの本を閉じた。

【07/8/8 追記】
 上ではいいことのほうを書いているけれど、ふと思い返すと『わたしの生涯』にはけっこう、欠点や失敗も書かれてたりするのだ。
 「偉大な人」というよりは、等身大のヘレンが見える。
 その時代を生きた女性のものの感じ方とか、どういうことを考えていたのかとか、そういうところが面白い。
 自己中心的になりがちであるとか、自我を通そうとするところとか、「うわー、わかるわかる!」となんだか自分を見ているようで、どきどき。
2007.08.07 | Bookshelf: 本棚  
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