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Amazon.co.jp:午後の曳航
 ジャン・コクトーは小説『恐るべき子どもたち』(萩尾望都漫画にもした)のなかで、その鋭角的で純粋ともいえる子ども像を描き出している。
 で、三島由紀夫の『午後の曳航』である。これもまた言ってしまえば恐るべき子どもたちの物語、過ぎ行く時間への抵抗の物語(それはすなわち大人になること、成長することへの反抗を意味する)のように見えるが、それは表面上にはりめぐらされた罠だ、という気がしてならない。
 子どもとは、元来そういうするどさを持っているものではないだろうか。新潮文庫『午後の曳航』の解説のなかで「こんな13歳はいない」という旨のことが書かれているけれども、それは大人が自分の子ども時代に対して幻想を抱いているか忘れているか、あるいはその他の理由があるかもしれないが、とにかくそんなことはない。
 子どもの世界は大人のそれにくらべると、ある意味ではずっと狭いが、ある意味で大人よりもずっと奥行きと広がりがあるし、子どもはその世界からのシグナルをつねに彼らなりのやりかたでつかんでいる。世界に触れているかどうかでいえば、より子どものほうが世界と密接につながっていて、たえず世界と交わっている。その鋭角的なするどさはかぼそく弱いように見えて、なにかを貫きとおす力にも満ちている。
 その力は子どもの中に最初から備わっているもので、道徳とか慣習とか慣例とか正義とかいった普遍的な概念によって少しずつ力をなくしてゆくだけなのだ。抵抗というなら、力を奪おうとするそれらの普遍的な概念への抵抗であったかもしれない。
 子どもが殺人をおかすことを時代の乱れだというが、むしろそれはひどく純粋なものであるはずだ(だからといって当然許されることではないし、どんな殺人も現代においては許されない、ただその背景を考えても無意味だというだけだろう)。
2006.08.08 | Bookshelf: 本棚  
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