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Amazon.co.jp:ダ・ヴィンチ・コード (上)Amazon.co.jp:ダ・ヴィンチ・コード (中)Amazon.co.jp:ダ・ヴィンチ・コード (下)
 最初に断っておきたいのだけれど、わたしは映画「ダ・ヴィンチ・コード」を見ていない。なのに、まるでアクション映画かサスペンス映画でも見ているかのように、一気に映像が駆けぬけていった。
 スピーディでスリリングな展開。
 日本人にはなじみのないキリスト教の話だからか、ファンタジーにさえ思える。現実味があるようでないような、この感じも映画のようだな、と思った。
 気がつけば手元には上中下巻すべて読み終えた『ダ・ヴィンチ・コード』の文庫本と、あまりの展開の早さにいまだよくわかっていない「謎」の不思議な感じとが残っている。

 結局、なんだったのだろう?
 たとえば小説のなかでの「黒幕」は、下巻に入れば当該のページまで行かなくても予想がついてしまう。でも、その背後にひそむ大きな謎について、結局のところ「答え」がわからないのだ。予想はできるけれど、それが合っているかどうか、解釈がダン・ブラウンの意図した通りなのかはわからない。
 だから、読み終えてもスッキリした感じはなく、「どういうことなのだろう?」と、何度か項をめくりなおした。
 答えがわかる必要は、ないのかもしれない。

 宗教の話はいろいろな意味で難しい話題だから、あえて、あまり触れないでおきたい。敬虔なキリスト教徒の方なら、もしかしたら怒りを感じるのかもしれないが……不謹慎ながら、キリスト教に縁のないわたしにとっては驚きの連続であり、好奇心を揺り動かされてしまった。
 そして、世界には何か大きな存在が(キリスト教のことにとどまらず)、あるのかもしれないなとぼんやり思う。言葉にできない何か、がありそうな気がしてならない。もちろん、ただわたしが感じただけではあるが。
2008.03.09 | Bookshelf: 本棚  
新潮社:yom yom vol.5新潮社:yom yom vol.6
 パンダにすいよせられて、1年近く。気がつけば yom yom も vol.6 まで発行されていた。
 vol.6 はなぜだかいつもより分厚く、そしていつもより書店での減り方が早くてびっくりしたのだけれど、これは小野不由美さんの『十二国記』シリーズ最新作(丕緒の鳥:ひしょのとり)が掲載されていたから、ということらしい。同じく vol.1 からの yom yom 愛読者で、かつ『十二国記』の愛読者でもある友人が、6年半ぶりの新作だから最後のお楽しみにとっておくんだと言っていたから、ファンには「待望の」といったところだろう。
 わたし自身は『十二国記』を読んだことがなく、最初は独特の振り仮名にびっくりした。中国の歴史ものは、宮城谷昌光さんの小説などで読みなれている、と思っていたが、そういうのとはまた違う。それに、歴史ものかなと思ったらファンタジーのようでもあり、なかなかに幻惑的。
 どうにも振り仮名なしだと読みづらくて、「なんて読むんだっけ?」とページを前後させていたのだが、たったひとつの短編なのに広がりのある世界を感じ、読みづらさを押してでも読んでみたい、と思わせてくれるものがあった。
 それを友人に伝えると、貸してくれるとのことで、いまから楽しみ。
 そして『十二国記』新作に限らず、vol.6 はなんだかラインナップが豪華。
 畠中恵さんの『ひなのちよがみ』は、長崎屋の若だんな・一太郎と手代の兄やたち、さまざまな妖怪が活躍する『しゃばけ』シリーズの一作。このシリーズが大好きなわたしだけど、まさか yom yom に載っているとは思わなかったので、ニンマリとほおがゆるんでしまった。

 vol.6 が豪華すぎて vol.5 のことが霞みがちだけど、こちらもいい。川上弘美さんの『貝殻のある飾り窓』は、まるで雨上がりのような読後感。
 おなじみの作家さんもうまいものだ。どこかで少しつながっているけれども、1つの作品として読むことのできる短編読みきりが掲載され、これはどこでつながっているんだろうと考えるのがひそかな楽しみになっている。
 エッセイも捨てがたい。ゆっくり、ちまちまと読むのが本当に楽しい。
2008.03.04 | Bookshelf: 本棚  
Amazon.co.jp:ぼんくら (上)Amazon.co.jp:ぼんくら (下)
 わりに時代物が好きで、けっこうよく読んでいる。
 4年半ほど前に入院したとき、暇をもてあまして院内図書館から借りてきた池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』にはまり、『仕掛人藤枝梅安』シリーズもそのあと次々に読んだ。
 司馬遼太郎さんの作品も父親が好きで、実家の本棚に並んでいたのを何冊か読んでいるし、もちろんこの『ぼんくら』の作者である宮部みゆきさんの時代物も手にとっている。霊験お初回向院の茂七にもなじみが深い。
 宮部みゆきさんの時代物では、等身大の人間の姿や普段の町人の様子、ひょいと何かが顔を覗かせる怖さなどが軽妙洒脱な語り口でつづられており、つい引き込まれてしまう。なにより、出てくる人に魅力がある。それも、現代で言うカリスマというのではない。小ずるかったり、失敗ばっかりしていたり、ちょっと短気だったり、だれにでもあるような欠点がある。でも、なんだか憎めないし、そこがいい。

 この『ぼんくら』の主人公、井筒平四郎も掛け値なしの「ぼんくら」同心だ。仕事に対する熱意とか、やる気とかをどこかに置き忘れてしまったんではないか、というような、だらりとしたお人である。
 でも、肩肘をはらないその「ゆる~い」感じが、平四郎ほどにはぼーっとしていない物語のなかにあってはちょうどいい。他の登場人物もこれまた個性的で、次第に緊張感をましていく物語にすがすがしい風を吹き込んでいる。
 それにしても。いろいろなものに対してぎちぎちに厳しくあることや、許せないと思い込んでしまうことはよくあることだが、一歩まちがうと何か恐ろしいところに落ち込んでしまうのではないかという気がしてならない。それを昔の人は、幽霊であったり、なんらかの怪異として感じていたのだろうか。
 世の中にはいろんな人がいて、その「いろいろ」が受け入れられないと、この世は息苦しいものになってしまいそうだ。
 人ごとではない。まっとうに健康でお天道様の下を歩いている、ということはとても貴重なもので、いつなんどき自分も「そちら」に落ちるかわかったものではない。いや、「自分がまっとうで健康に生きている」ということも、実は思い込みなんではなかろうか。
 そう考えると背筋が寒くなったが、平四郎を見習って、考えてもしょうがないのであんまり考えすぎないようにしようかな、というところに落ち着いた。

 蛇足かもしれないが、本作はこんなことを考えなくても、素直に笑いありスリルありでテンポよく楽しめる作品だと思う。
2008.02.28 | Bookshelf: 本棚  
Amazon.co.jp:女王国の城
 たしか、『双頭の悪魔』を読んだのが高校1年か2年のときだったから、それから数えてもゆうに8年ほどは経っている。『双頭の悪魔』が刊行されたのが1992年だから、実に15年ぶり……と考えてめまいがした。
 何のことかといえば有栖川有栖さんの書く、江神二郎を探偵とした一連のミステリ・シリーズものの話である。有栖川さんのデビュー作『月光ゲーム』をはじめとして、『孤島パズル』『双頭の悪魔』と続いていたのだが、ぴたりとその次が出ていなかった。
 それが、なんと昨年(2007年)の秋に続きが刊行された。けれどもそのとき卒業試験まっただ中、加えて国家試験を控えている身。その分厚さに「これをいま読んではいけない」という無言の圧力を感じ取り(ハードカバーで厚みが3cmもある)、背表紙を見つめたまま手をひっこめたんである。

 そういったわけで、自由の身となったいま、やっとこの本を読んだのだった。最近は本を読むスピードが落ちていたから、これは3日くらいかけてゆっくり読むのかなと想像していたら、1日でひといきに読みきってしまった。
 特にこだわりのない半端なミステリ読者のわたしではあるが、ほどよい「謎解き」のパズル感がいい。こまかいところを気にする人には納得のいかないこともあるだろうけれども、わたしとしては江神さん、アリス、マリア、モチさん、信長さんといった面々にまた会えたね、といううれしさのほうが大きい。

 そしてこれ、26日に北山に行ったあとに河原町三条下ルのジュンク堂書店で、友だちと「読み終わったら、あの本とトレードね」という約束をして買ったのだった。貸してもらうのは、『ダヴィンチコード』。あれもこれも、まだ読んでいない本がたくさんある。
 友だちは高校時代からの同級生で、大学は違うが国試のときも受験番号が連番だった。そういえば『月光ゲーム』から『双頭の悪魔』までの一連の作品も彼女に貸したなあ。彼女からもたくさんの本を貸してもらったし、いろんな本を教えてもらった。
 そういう思い出と、『女王国の城』に出てくる大学生(江神さんは28歳だけど)のみんなの様子がまじり合って、ほんの少しだけしんみりしてしまった。10年も付き合いが続いていることを、大切にしたいなと思う。
2008.02.27 | Bookshelf: 本棚  
Amazon.co.jp:第四間氷期
 『砂の女』をだいぶ昔に読んだとき、安部公房のことを「暗くて気のめいるへんな話を書く人」というふうに感じたことを覚えている。中学生か高校生くらいで、蟻地獄の中に落ちた蟻の気分なんて知らないよ、という頃だったから無理もない。
 その安部公房の書いたものを、『第四間氷期』という意味ありげな題名に惹かれて、ふと本屋で手にとってページをめくってみた。すると、
死にたえた、5000メートルの深海で、退化した獣毛のようにけばだち、穴だらけになった厚い泥の平原が、とつぜんめくれあがった。
なんて、いかにも面白そうではないか。
 じっさい、これが面白い。
 けれども、読み進めるうちに疑問がふくれあがっていった。
 未来とは何か。
 『第四間氷期』では、未来があるひとつの形で提示される。
 そして、その未来を肯定的にとらえるものたちは、「その未来がどんなものであれ」受け入れているように思える。それが主流・メインストリームとなって流れを作ってゆくわけだけれど、その過程で未来に耐えられないものたちは主流にかき消されてしまうのだ。
 そのことに、わたしは違和感を覚えた。
 未来が現在にとって肯定的なものであるか否定的なものであるか、という問いを、作者はこの作品を通して投げかけているけれども、そういうものなのだろうか?天才・安部公房に対して失礼なことかもしれないけれど、わたしにはどうも、その「問い」自体がナンセンスのように感じられるのだ。
 未来は、単なる未来であり、肯定も否定もこえたところにある。
 現在も、過去も、同じだろう。
 ただ、それに対して肯定や否定の意味づけをするのは、かならず違う時代の人間であり、未来を「見る」という機械がなければ未来に対して本来は肯定も否定もされ得ない。また、現在が未来からみてどのような評価をされるかは、わたしたちには知るよしもない。ひとつの国の、現在のひとつの事柄ですら肯定と否定の両方の見地があるわけで、未来からみて現在が否定されたところで驚くことはなにもない。
 歴史とはつねに勝者が「作り上げてきた」ものであるし、現在の人が過去を断罪するのも、変だなと普段からわたしは思っているからだろうか。自分の未熟さもあって、いまいちこの作品の衝撃やすごさが伝わってこなかった。

 ひとつ考えられることは、この『第四間氷期』が未来が安穏とした日常の連続性の範疇の中にとどまっている肯定的なもので、未来からみてまた肯定されると妄信している人々への警鐘だった、ということである。
 このままの日常が未来永劫続くと思っている人にとって、『第四間氷期』はじつに効果的な警鐘となっているだろう。
 あるひとつの提示された未来への、反応。
 それを天秤にかけることが、この小説のおもしろさを生み出しているように思うと同時に、どうにも奇妙に感じられてしょうがないのだ。うまく説明ができないのだけれど。
 『第四間氷期』で描かれる未来の姿は、べつに衝撃的なものではない。そういう未来も、ありえるだろうなと思わせる公房の筆力はすごいと純粋に思う。けれども、その未来を否定し、現在にしがみつく人をわたしは否定できない。ただ現在を生きていてはだめなのだろうか?
 わたしが読み間違いをしているだけなのかもしれないけれども、後味の悪さと疑問が残る。
 (それこそが、狙いだという可能性はあるにしろ)。
2007.11.13 | Bookshelf: 本棚  
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